これから本当の伝説をみせてほしい 朝倉未来<路上の伝説>

スポーツ

現在、日本で一番有名な格闘家と言っても過言ではない朝倉未来。

「路上の伝説」「THE OUTSIDER2階級制覇」を引っ提げてRIZINのトップ戦線に挑んだ朝倉。

しかし、RIZINではクレベル・コイケ、ウガール・ケラモフに完敗。YA‐MANにはコンディションやルールに不安があったとはいえ衝撃の1RK.O負けを喫してしまいます。

そんななか、2024.7.28に超RIZIN.3にて宿敵平本蓮との一戦が組まることになりました。

これまでネット上を中心に散々煽られながらも朝倉にしてみれば圧倒的格下で相手にしていなかった平本との一戦。ここに朝倉はまさに再起をかけて臨むことになりそうです。

負ければ引退、まさに格闘家朝倉未来の今後を占う決戦となります。

かくいう僕は朝倉未来の大ファン。ここから這い上がりを魅せてほしいと思い信じている一人です。

朝倉未来にここからもう一度伝説を魅せて欲しい、そんな思いを込めて朝倉未来の原点「路上の伝説」についてまとめてみました。

超RIZINの主役は何と言っても朝倉未来。

そんな彼の歴史に想いを馳せ、RIZINをより一層楽しみたいと思います。

路上の伝説

幼少の頃から身体能力に恵まれていた。幼稚園で相撲をとらせれば相手をぶん投げた。

「こいつは力が強すぎる。格闘技でもやらせた方がいいかもしれない」

父親に言われ、格闘技の存在を意識し始めた。

“強くなりたい”が自分の中の真実だった。

小学生になり空手に打ち込んだ。大人になって格闘家として格闘家として活動している現在よりもずっと練習に時間を費やすほどあまりにも熱心に取り組んだ。いろいろなことに気を散らせるな、そんな親父の考えがあった。

大人になった今では無意味なウエイトはしない。

この頃は大人が評価してくれるのが嬉しかった。自分は強いかもしれないと思えた。

4年生になると相撲も習い始めた。

幼い頃は性格が勝気ではなかった。相撲は無差別である。

自分よりも大きな相手しかいない相撲をやれば怖気づくこともなくなるのではない。街の喧嘩は相撲が最強。ここにも父親の教えがあった。持ち前の身体能力を発揮し体の大きな子供たちを相手に互角以上に渡り合った。

長く続けていると、それまで見えなかったものが見えてくる。

まず、俺は太れなかった。それは相撲では不利である。無理やり太ろうとした結果、得意だったマラソンで順位が下がった。

空手は本当に強いのか疑問を持つようになった。ボクシングの方が強いのではないか?

そう思うと実力さ才能は現れていたがつまらなくめんどくさくなった。

俺は絡まれやすかった。この頃の俺は空手で名を上げていたが体格が小さかったのものあるが、それ以上に自分の気持ちを素直に出し過ぎていた。素直がすぎると人と揉める。自分の考えていることを伝えたとは思っていたがあまり理解されることはなかった。

こうして、中学時代は喧嘩三昧となる。俺から喧嘩を売ったつもりはなかったが売られた喧嘩はすべてかった。先輩に呼びつけられ」てもおれが勝利した。

喧嘩に明け暮れるなかで、喧嘩の奥深さに感銘を受けていった。

子供の空手では顔を攻撃出来ない。現実では殴ってこられる。相手が柔道家やレスラーだったら?ボクサーだったら?空手では対応できないだろう。

喧嘩のもつ抗えない魅力にとりつかれた。

喧嘩を通じて仲良くなった人が2人いる。

一人は岡君。俺のひとつ上の代にあたる。先輩でも構わず対峙しのしてきた俺の存在は彼に言わせれば台本通りではなかったらしい。生意気な下級生の存在に我慢ならなかったのか岡君達は10人位の徒党を組んでやってきたて謝ることを要求した。当然俺は謝らなかった。多数で取り囲めば流石に謝るだろうと思っていたのに俺が全くビビッてないものだから向こうが逆にひるんでしまった。

もう一人。吉田君と出会ったのも中学時代だ。

体育館でキックボクシングの練習会があって、それに参加した時にどうも吉田君の弟をボコってしまったことがあったらしい。それが吉田君に伝わっていたようだ。

吉田君はそこら辺の不良とは違って、とても高い身体能力をもっていた。お互いが攻撃を回避しまくるので決着がつかずもういいんじゃないか、ということで喧嘩はお開きになった。すぐに仲良くなるということはなかったけれど、自分に似通った雰囲気を感じていた。

吉田君に限らず、一個上の世代にはシンパシーを感じていた。

同世代には、心を許せる人がいなかった。

俺は孤独だった。

寂しさを感じていた。

岡君や吉田君、一つ上の世代のグループと仲良くなり、俺は初めて友達ができたような気持ちになった。

親の勧めで高校へ入学したが「やっぱり違うな」と思った。

平均的に勉強して何になるのか。締め付けが強く感じ喧嘩が増え、あっという間に謹慎になった。

謹慎中は岡君達とカラオケに行ったりやバイクを乗り回したりしていた。俺たちは不良ではあったが悪党ではなかった。暴走族の誘いもあったが徒党を組んだ卑怯者の集団に興味はなかった。

ただ自由を味わいたいだけだった。

自由はそうも続かなかった。

ある日、岡君が暴走族から3vs3の喧嘩の申し入れを受けた。

「あいつらは3人では来ない」直感でそう感じた俺たちは10人で向かった。相手の暴走族は50人の列をなしてやってきた。

敵の暴走族」に一人が早くも殴ったり頭突きなどをしてこっちの仲間を攻撃し始めた。喰らった仲間がダッシュで逃走すると岡君は「見てくるわ」と言って追いかける体で逃げ出した。もちろん帰ってくることはなかった。敵も卑怯だが岡君もめちゃくちゃ卑怯だった。

こうして仲間もどんどん逃走していって最後に残ったのは二人だけ。

俺と吉田君だった。当然、俺は一人でも戦うつもりだったが、たった一人でも残ってくれた人がいたというのは心強かった。正直逃げるのが当然の状況。ここで残ってくれたからこそ吉田君は一生の友達になったのだと思う。

正直、ワクワクしていた。

打ち込めることもなく、やりたいこともなかった俺はいつ死んでもいいと思っていた。だが、喧嘩をしている時は生の実感を得ることができた。

五十人に囲まれて勝てるとは流石に思ってなかった。むしろ死ぬと思っていた。

だからこそ、このような絶体絶命のシチュエーションは俺にとって最高に楽しい瞬間だった。

俺と吉田君は分断されお互いの状況も分からないまま袋叩きにあった。

眼窩底骨折と網膜震盪症。網膜剝離一歩手前までいっており俺の目は失明寸前だった。

50対2とはいえボコボコにされたのは悔しくてたまらなかった。タイマンなら俺の方が強い。

「絶対にやり返してやる」

俺はタイマンで喧嘩をするために暴走族に入った。

ただただ、喧嘩が好きなだけの男だった。俺は相変わらずだった。

一対一の喧嘩ならいくらでも受けるというスタンスでいた。卑怯なことはするな、喧嘩の時は武器を使うなということを周りによく言っていた。武器を使うのは卑怯者のすることだ。とはいえ、空手では味わえなかった喧嘩の奥深かさというのは、こういうところにあったといえる。

喧嘩三昧で学校を謹慎になったが俺は外では暴走族として活動し、家では煙草をくゆらせながら遊んでいた。

「もう、学校辞めてしまえ。家も出ていけ」と突き付けられた。

家を出た俺は二日か三日に一回位の頻度で仕事に出てそうでない日は昼に起きて夜は昔のように遊んだ。

それはとても自由で楽しかった。何にも縛られていなくて好きな時に好きなことができた。喧嘩ではスリルを味わえたしバイクで走っている時に警察に追われるのにも面白さを感じていた。

ある日、先輩から連絡があった。「お前の力が必要だ」と。

暴走族同士の何十人規模の抗争にになると。ともあれゲームセンターの駐車場に集合することになった。相手もすでに何人か待ち構えており、俺たちは俺たちで「やるならやるよ」と臨戦態勢だった。

総長同士の話し合いで「集団対集団で喧嘩をすると全員が逮捕されてしまう。あっちの一番強いのがくるから一番強い同士で戦おう」という話になった。

俺が出ていくことになった。強い奴と戦えるならシンプルにそれでよかった。

始まるや否や相手は助走をつけてジャンピングパンチを繰り出してきた。

俺には止まって見えた。相手の顔面へひだりフックを合わせる。

喧嘩が始まって何秒もしないうちに決着がついた。それもたった一撃で。

路上の伝説の誕生である。

少年院と母親

自由を謳歌し暴走を楽しんでいた毎日。だが、こういう部分にも俺の飽き性が出た。俺はさらなるスリルを求めて、鉄塔に登ってみたり、酒を飲んで梯子を登ってみたり、バイクを後ろ向きで走ってみたり。そんな方向に遊びが変わってきてしまった。

そんなある日。

「そろそろ朝か」と思った俺はいつものようにノーヘルメットでバイクを転がして家に帰った。

六人位の警察官が待ち受けていた。俺の居場所がばれていた。

そのまま留置所いきになった。

「とうとうこの時がきたか」感慨以外のことを覚えていない。ただねかせたくれと思っていた。

目が覚めた俺は「ああ、捕まったんだ」と現実を受け入れることになった。

鑑別所では小さな部屋の小さな机で反省文を書きながら就寝までの時間を過ごした。

本当のところ、俺は反省などしていなかった。これがおれの人生だと思っていた。

鑑別所での生活態度で少年院にいくか保護観察になるかが決まる。みんな少年院へは行きたくないので人が変わったようにいい子で過ごす。だが、俺は自分がやってきたことを否定したくなかった。表面だけ取り繕って謝るのは噓だ。ぶれている。

今だから思うが少年院にいってよかったと思っている。理由はいくつかあるがもし逮捕が三日遅かったられは極道になっていたかもしれなかった。筋彫りをいれようと彫師予約をしていた。

運命みたいなものだが、逮捕によって彫物を入れずに済んだのはおれの人生にとって重要な分岐点になった。

俺たちにとって少年院というのは身近なものだった。俺たちの地元からするとちょっとヤンチャな人はみんな行っている、行ったことがあるという場所でしかなかった。しかし、入ってみるとめちゃくちゃキツイということが分かった。夜に起きて喧嘩をし、昼まで寝てまた起きる、というそれまでの生活と比較したら、非常に厳しいものだった。

朝は七時に起きて朝食を摂る。八時五十分n合唱とラジオ体操を行い九時から勉強をさせられる。十二時に昼食、午後は生活指導や運動。夕食後は自主学習などを行い、二十時から少しだけテレビを見たり本を読むことが許された。二十一時きっかりに就寝である。

そんな生活が毎日続いた。

運動やテレビが面白いのは当然だが、意外と楽しみになっていたのが読書だ。施設内にも本がたくさん置いてあり、一週間ごとに新しい本をもってきてもらえた。母親が本を差し入れしてくれたのもあって文字にずっと触れていた。

勉強も結構していた。高卒認定の勉強をして、世界史の単位を取った。いわゆる学校の勉強である。それ以外にも資格を所得するための勉強をこなしていた。危険物取扱者やワープロ検定を取得した。

普通の人が学校で勉強しているはずの時間を自由に遊んでいたので強制的ではあるがこういう形で勉強することができたのはよかったと思っている。

母親はたくさん手紙を書いてくれた。毎月面会にも来てくれた。

片道二時間位かかったと思うが苦にせず通ってくれた。本当にありがたく思う。

もらった手紙は捨ててしまったけれど、送ってもらえたのは嬉しかった。涙で濡れた便箋を見て、迷惑かけたな泣かせてしまったなと思った。

俺が逮捕された時、母親は「自分の育て方が悪かった」と自分を責めた。

自分が謳歌していたのは無責任で身勝手な自由だったことをだんだん自覚し始めていた。

弟も面会に来て、朝倉未来の弟ということでヤンキーに絡まれて困っている、と言われた。

少年院の中で大人しくしていても、色々と影響があるものだ。

関係ないだろ、俺の勝手だろ、と思ってやっていたことが知らないところで人を悲しませていたのだ。

そんなある日―面会に来た母親からあることを聞かされた。

「岡君、格闘技の大会に出るらしいわよ」「アウトサイダーって言うんだけど」

前田日明氏の音頭で始まった、全国の不良達を集めたアマチュアの格闘技大会、THE OUTSIDERのことだった。

「あなた、喧嘩強いんだから、ここを出たらやってみたらいいんじゃないの?」

俺は格闘家になるという夢をはっきり意識するようになった。

格闘技に詳しい先生からは「それは無理だと思う」と釘を刺された。

けれど、母親はそういうリアリズムとは無関係に応援してくれた。

俺は日本で一番強いと思っていた。だって、これまで喧嘩で負け知らずだったから。

今までは典型的な不良で不健康極まりない状態だった。

そういった悪習をすっかり断ち、規則正しい生活の中で、適度な運動と食事を摂ったことで俺の身体能力は本来のポテンシャルを発揮し始めていた。

こういう規則正しい生活が格闘技を始める前の準備運動なのだと捉えるようになっていた。

THE OUTSIDERそしてRIZIN

俺は少年院を出た。

十八歳になっていた。

THE OUTSIDER。全国の腕に覚えのある喧嘩自慢達がしのぎを削り、勝った者は栄光のスポットライトを浴びていた。

その代表格が吉永啓之輔。一地方の暴走族に過ぎなかった男が華麗な関節技で相手を屠り、大会を象徴するような脚光を浴びていた。付いた名は”喧嘩彫師”アウトローの証拠のような彫物がリングの上では英雄の印のようになっていた。

「俺、ここに出てる奴ら全員勝てるわ。弱いよね」

しかし、時代は格闘技人気の絶頂期。THE OUTSIDERはアマチュアではあったが単なる草の根の格闘技大会ではなく本当の不良頂点を決める、という風格があった。出場希望者も多く自薦での志願が五百人を越えていた。履歴書を送ったが落選した。

もっと強くなる、実績を作る必要があると考え、豊橋唯一の総合格闘技の道場に出向いた。

コテンパンにされた。寝技に全く対応出来なかった。

真面目そうな相手に喧嘩なら間違いなくやられていた。自分のことが許せないと思った。

もっと強くなれる、真剣に”格闘家”をやろうと決めた。

未知の寝技ウエイト、基礎トレーニング。昼間は現場仕事をしつつ格闘技の下積み生活が続いた。

人が遊んでいる時間を格闘技に費やし確実に強さを手に入れていった。

二十歳、DEEPに参戦した。記録に残っているものではこれがデビュー戦である。

この頃は、あまり防御は考えてなかった。KOを狙ってのフルスイング。左フックでKO勝利した。

「勝者、赤コーナー朝倉未来」

小さい舞台だったがこの舞台が明るく輝いていた.母親は涙を流して喜んでい。格闘技の試合で勝ち、観客を熱狂させ、栄光に浴する喜びを知った。喧嘩より凄いじゃん、と思った。

その後、地下格闘技で六戦程ほど経験。機は熟した。THEOUTSIDERに参戦することになる。

THE OUTSIDER初戦。打撃でKO勝利を狙ったがあっけなくチョークで一本勝ちとなった。

念願のTHE OUTSIDER初戦が湿っぽい試合になってしまった。もう少し強い相手とやらせてくれよ、と思った。不完全燃焼だった。

第二戦、左フックで文句なしのKO勝利を収めた。続く第三戦も二ラウンドKO。三戦三勝となった。

ほぼ、二ヶ月おきの連戦。今思うと考えられないハイペースだった。

すべてが思い通りにはいかない。練習中に拳を骨折してしまった。念願のMrTHE OUTSIDER吉永啓之輔との試合を欠場せざるを得なくなった。格闘技で一番怖いのは怪我だということを思い知らされた。

そうして次の試合に向けた調整をし迎えた樋口武大戦。吉永との試合は流れてしまったが、樋口は実力は折り紙つきで、次のマッチアップとして相応しい強者との対決だった。

試合開始すると、樋口は足を使いながら距離を維持しようとするが、打撃は強くない。俺の左ストレートが顔面にヒット。樋口はグラウンドに倒れた。

しかし、後から考えればこれは寝技にもっていこうとする樋口の戦略だったとも言える。

俺はパウンドで仕留めようとしたが、樋口が両足で俺の下半身を絡め取る。離れようとするも回転しながら巧みに動きを制され、グラウンドに引きずり込まれた。そこからは早かった。かかとの逆関節を取られた。極まっていたのはかかとだったが、膝も伸ばされつつあった。

タップしなかった。向こう見ずだが死ななければ負けじゃないと本気で思っていたからだ。けれど、アマチュアの大会であるTHE OUTSIDERでは他の興行以上に選手の怪我に対する配慮があった。

一分六秒、レフェリーストップにより敗北が決まった。その日試合後をどう過ごしたか、もう覚えていない。

敗戦は糧になった。自分がやられた寝技でやり返したい。総合格闘技をなめていたことも認めざるをえなかった。寝技の技術をめちゃくちゃ鍛えた。もう負けられなかった。

復帰戦はKO勝利を収めることができた。同じ大会で、後に俺たち兄弟を東京に呼んでくれることになる戦う弁護士堀鉄平さんが、吉永選手に勝利した。吉永選手が負けた言い訳のようなことを言っていて男らしくないと思った。自分の中で、吉永選手の価値は下がっていた。

同年、六〇ー六五㎏王者の選手が契約違反で王者を剝奪されたことで王座を決定するトーナメントが開催されることになった。

このトーナメントでは運動のいたずらがあった。初戦の相手初戦の相手がリングチェック中の負傷で欠場が決まった。正直眼中にない相手だったが、せっかくコンディションを作ってきたのに試合が出来ないのは辛かった。ここで、もう片方のマッチメイクで選手が交通事故にあったとの情報が入った。こうして、後に盟友となるDarkRikutoとの対戦が決まった。戦いのスタイルはバチバチのストライカーで観客を魅了していた。俺のモチベーションは上がった。当然、強い相手の方がやる気がでる。

いいところに入りそうで入らない。こちらが細かくフェイントをかけるのに対応して機敏に動いてくる。こいつは強いなと思った。スタミナもあるが、何より気迫が違うと思わされた。残り三十秒。思わず笑みを浮かべた。もっと殴ってこい。もっと殴らせろ。町野姿勢を取らずハイキックやストレートを積極的に繰り出す。試合終了のゴングが鳴り抱き合ってお互いのファイトを称えた。判定の結果は三対〇で俺の勝利。「強えよ、あいつマジで」俺は改めて仲間に言った。けっこうミドルが効いていた。

ドクターチェックを受けたところ右の拳を骨折していた。

「試合出れないかもしれないから、代わりにトーナメント出といて下さい」

「了解。絶対勝ったるわ」

気持のいい相手だった。

俺はトーナメントをリタイアした。代わりに出たDarkRikutoは決勝で樋口に判定で敗れた。

俺不在のトーナメントに意味はない。そう遠くないうちに俺がベルトを取りに行く。そういうつもりでいた。

療養中、徹底的に練習した。以前とは比べ物にならない強くなった。全てがTHE OUTSIDERでトップレベルだった。プロの試合を観に行っても俺の方が強いと思った。

そして、吉永選手への挑戦権を賭けたトーナメントへの出場を決めていた。一つ上の階級だったが、険しい道を選んだ。

KO勝利を重ねた。力の差は歴然だった。

吉永選手への挑戦権を手にした。かつて、対戦権を得ながらその負傷を失った。THE OUTSIDER出始めの頃は、「恐らく勝てるだろうな」と思っていた。今は違う。「確実に勝てる」という自信をもっていた。吉永選手はTHE OUTSIDER立ち上げから継続参戦し、この階級の初代チャンピオンとなった団体を代表する選手だ。俺にとって通過点に過ぎないが、吉永選手の時代を終わらせるということは一つの使命にも思えた。かつての夢であり、今や当然超えるべき一つのステップになった吉永選手とのタイトルマッチが始まる。

序盤は少し様子見から入った。打撃力や当て勘の面では俺が圧倒的に勝っている。吉永選手はリーチの長さを生かしてパンチやキックを放ってくるが、どれも距離の調整に過ぎなかった。試合のペースを俺が握っているのは明らかだった。相手の攻撃の素振りを読み取り、それよりも早く右のジャブや回し蹴りを繰り出していく。ヒットこそしなかったが吉永選手の動作には明確に焦りが感じられた。組技に持ち込みたい吉永選手は、さっきから不用意に飛び込んでくる動きが多い。その動きを観察し、タイミングを見計らっていた。

一ラウンド二分三十秒。その時がはきた。

右のパンチを押込みながら右ハイキックを打とうと接近してきた吉永選手の顔面にカウンターの右フックを打ち込んだ。一撃で崩れ落ちた吉永選手に詰め寄ると、間髪入れずにパウンド。レフェリーがすかさずKOを宣言した。

こうして、俺はTHE OUTSIDER六五-七〇級の第五代王者として戴冠した。

劇的なKOと俺のマイクパフォーマンスで興奮の頂点に達した観客たちを前に宣言する。

「樋口選手いますかね?」「タイトルマッチやるみたいですけどオレ抜きで決めても面白くないと思うんで。樋口選手、次、やりましょう」

彼へのリベンジは打倒吉永選手を果たした後に残った至上命題だった。

まる二年の時を経て、六〇‐六五㎏タイトルマッチという形で、俺は樋口選手と再戦した。

万が一にも負けることがあれば、格闘家人生は終わりだと考えていた。再戦が決まった時、それまで吸っていた煙草をやめた。やめられるものを全てやめ、格闘技にすべてのリソースを注ぎ込んだ。圧倒的な実力差を自任しているからといって慢心はなかったが俺の自信はそういう積み重ねを背景にしている。

リング上に二やついている樋口選手と無表情な俺が並び試合が始まる。

樋口選手は隙あらばタックルを決めてやろうという腹だろう。大きく開脚した構え。

前足へのローキックを警戒しつつ俺は懐へ飛び込んでミドルへの後ろ回し蹴りを繰り出した。クリーンヒットではなかったが一気に距離が縮まりグラップリングの展開になる。相手は自分の展開だと思ったかもしれないが、マウントをとったのは俺だった。もっとも、相手の防御は上手く、ブリッジで体を引き剝がされた。スタンディングで試合が再開すると、即座に左のハイキックで俺は間合いを詰めていく。俺の打撃は寝技のための牽制ではない。ステップがおぼつかない樋口選手に渾身のミドルキックを打ち込んでいく。ガードはされたが明らかに相手の体力を削っていた。気付くと樋口選手はコーナーポストに追い詰められていく。ここが勝負所だと睨んだ俺は一気に詰め寄り、パウンドを打ち込みながらマウントをとる。のけぞって立ち上がろうとした瞬間を狙って、俺の左腕が樋口選手の首元を捉える。蟹挟みも決まり、完全な形で、チョークスリーパーが決まる。

一ラウンド三分十七秒。失神を確認したレフェリーがストップをかける。

俺のリベンジをがなされた瞬間であり、THE OUTSIDER初の二階級王者が誕生した瞬間でもあった。

とはいえ、THE OUTSIDERにはもう敵がいないことも確かだった。だから、今日の試合結果は単にそれを証明したに過ぎない。勝って当然。次は世界を狙っていかないといけない。

その、意味で言えば今日の二階級制覇ということも、物語の序章に過ぎない。

俺も、それからも弟の海も驚くべき達成をこれからも積み重ねていく。

俺の物語はまだ終わらない。

 

 

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