人生何をしていいか分からない!そんなときに考えるたった1つのこと

戯言

人生がどうにもつまらない、どうしたらいいか分からない、なんとなく辛い、そんなとき気持ちになるときってありませんか?

順調に過ごしてるときでさえもそんなことってあるんじゃないでしょうか。かくいう僕ももちろんあります。

今日は、そんな憂鬱を和らげてくれる一冊のエッセイをももってきました。

「どすこいな日々」著 関取花

関取花、実は僕の大好きなシンガーソングライターです。ライブにも行かせて頂きましたが飾らない等身大の曲が本当に身にしみます。

著書に書かれていることは、「人生なんて壮大なネタ探し」

悩める人たちの役にきっとたつだろうと思い紹介します。

自分は割と駄目な人間。だからこそ些細なことに目を凝らそう

花さんは自分のことを割と駄目な人間だと思っているようだ。瞑想も運動も長続きしない。運動をするための服を買おうと出かけた途中でずっと欲しかったシャツを買ってしまいお金が足りなくなり泣く泣く帰ることもあった。

そんな駄目な自分だからこそよく目を凝らせば案外いろんなネタが転がっている。この本で書かれていることは、些細な日常で起こったちょっとしたことばかり。誰からみてもキラキラしてるような思い出や、分かりやすくドラマティックな出来事とかでは決してない。そんなことでも、ふと思い出した時にじんわり胸がが温かくなる話だったりする。

例えば僕のお気に入りのエピソードは「東京美容院ライフ」。花さんは東京の美容院が苦手だだったよう。理由は何から何までキラキラしているから。かくいう僕もつい昨年初めて行きつけの美容院なるものができたので気持ちはよくわかる。なんとなく行きづらいのだ。

ある日花さんは少し早めについてしまったので店のベンチで座って待っていた。すると女性スタッフが雑誌をもってきてくれた。「カレー特集」、「饅頭特集」そんな雑誌である。

「なんかお好きかな」と思って。

そこにはなんの後ろめたさのない、屈託のない笑顔を浮かべたスタッフさんが立っていた。可愛いな、おい。

今考えれば、おどおどしてる私を気遣って気持ちをほぐそうとグルメ誌を出してくれたのかもしれないが当時はその優しさを純粋に受け取ることは出来なかった。だからわたしもよくない。いや、よくないことはないか。

美容院に行く、たったこれだけのかもことでも目を凝らせば「いいエピソードのまた1つ出来た、儲けものだ!」くらいに思えるだろう。

行動を変えると新たな発見が生まれる、満足度が上がる

普段と行動を変えると新たな気付きがあったり自然と満足度が上がることがあります。

例えば「森ガール」(知らない方は画像をしよう検索してみてほしい)。

「すごい、花は森ガールが確立しているね」

「妖精さんみたい」女子高生が悦に入るには充分すぎる言葉たちだった。-もっとオリジナルな森ガールになりたい-そこから深い森で迷子になった。森ガール関取は考えた。最終的には生成りのレースの紐のレッグウォーマー、鳥かごにネックレス、どんぐりなヘアピンといった森ガールスタイルが完成した。待ち合わせ場所に到着した友人の1人は私の姿を見てこう言った。

「いやマジすぎだろ」

どんな言葉より正直な言葉に、私はハッとした。「マジになりすぎた」と。

今なら分かる、引き算の美学というものが。欲張って足し算ばかりしすぎると、本来の目的ガチぼやけてしまうものだ。この引き算の美学は、今でもあらゆるところで大いに役立っている。

例えば小説ごっこ。

「夢の中を歩くようなおぼつかない足取りで窓辺へ向かうと、灰色の空が泣いていた。抱きしめてあげたいと思った私は、思わず両腕を伸ばした」

入りはこんな感じだろうか。やり過ぎくらいがちょうどいい。

私は雨が嫌いだ。ついイライラしてしまう。そんな日でも楽しむ方法はないかと考えた末に編み出したのが、この「小説ごっこ」である。雨の日は無駄にセンチメンタルな気分になるので、もってこいなのだ。大した意味のない行動にも、さも意味ありげな文脈を頭の中で付け足して行く。そうして設定を作り上げて、浮かび上がってきた主人公になりきって過ごすのだ。一度入り込めば、あとはこっちのものである。冒頭伸ばしたセリフは朝起きて背伸びのしたというだけ。

「その時私は、もう経ってもいられないと思った。どこか狭い場所でうずくまっていないと、一人ぼっちだというじじに押し潰されて、この身体が張り裂けてしまいそうだった。」

突然トイレに行きたくなっただけである。

馬鹿だなあと思いながらも、いつも気づけば夢中になっている。無意識を憂いをおびた表情を浮かべている自分がいたりして、思わず噴き出しそうになることもある。するとイライラするのも馬鹿らしくなってくるのだ。

自分が考えたこと、心揺さぶられたことは覚えている

私が小学1年生の頃、兄と小説を書いた。兄が書いた小説は「泣いたライオン」だ。見た目が怖いというだけでみんなに嫌われているライオンと、そのたった一匹の親友のうさぎの話だったと思う。最後はうさぎが死んでしまって、ライオンも悲しみにくれ泣きながら死んでしまう。その姿をみて、みんなはライオンの優しさに気づくのだったという話だった。対して私が書いたのは「死んだウサギ」お察します通りただのぱくりである。私の小説を読んだ母は

「花ちゃんには花ちゃんにしか書けないものがあると思うから、お兄ちゃんの感じとはまったく違うのを書いてみたらいいんじゃない?」

そして私が書いた小説のタイトルが「幸瀬幸」である。人名だ。なんて読むかお分かりだろうか。「しあわせ はっぴ」まさかのキラキラネームの先取りである。

こんなこと、なぜ鮮明に覚えているのか。私の場合、自分の中で何かしらの感情をはじめて味わった時のことは、割と鮮明に覚えている。はじめて感動して泣いた時のこと、はじめて恥ずかしいと思った時のこと、はじめて罪悪感わ抱いた時のこと。割と事細かに思い出すことが出来る。

私はライブが大好きだ。

その場でお客さんの反応ガチすぐに返ってくる。いいライブをすれば、まずお客さんの目が変わる。そしてその場の雰囲気もガラッと変わる。そしてそれを自分の肌で感じることが出来る。こんなに素晴らしいことはない。

はじめてそれを感じたのは18歳も閃光ライオットというコンテストで決勝に進出した時、1万人を超えるオーディエンスの前でライブをした。観客の目がステージの上でギターをしようもつ私たった1人に注がれているのを見て、すごい景色だな時のこと思った。でも、不思議と緊張はしなかった。歌い出した瞬間、その場に流れる空気が変わったのを感じた!ざわついた会場ガラッと一気に静寂に包まれて、私の声だけが響き渡る。柔らかい風に吹かれながら、止まった時間の中を泳いでいるような感覚で、ただだた心地よかった。ああ、ここにいれば私は大丈夫だとなんとなく思った。ありのままの自分が受け入れられたような気がした。そして少したけ自信が持てた。自分にはことが少しだけ好きになれた。

あれから何年が過ぎただろう。いろんな事があった。いいことばかりではなかったし、やめたいと思ったことなんて何度もある。長く続けることで失ってしまったフレッシュさや純粋な気持ちだって、少なからずあるだろう。

それでもライブする度に、私はあの頃の自分に帰る。やっと居場所をも見つけたと思えたあの瞬間に。だからライブはやめられない。だから私は歌い続ける。

人生はネタ探し ネタはもうすでに転がっている

先日ある人に「傷つかないためにはあまりなにかと期待しないほうがいい」と言われた。なんだかななあ、と妙に嫌な気分になった。多少傷ついてもいいから、私はやっぱり期待したいのである人に私は私自身を全力で面白がっていたい。ちっぽけな自分には少しでも期待してやるために、今日も何かを見つけたい。

此のエッセイにはこうした何かが過ぎたいっぱい詰まっている。紹介したのはほんの一部。

人生なんて壮大なネタ探しみたいなものだと思う。どんな今だって、最後は笑い話に変えればいい。そしてそのヒントがここにあるような気がする。

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