2023年12月16日、「関東大学リーグ戦1・2部入替戦」で、関東学院大学ラグビー部が38-26で拓殖大学(1部7位)に 勝利し、1部復帰が決定しました。1シーズンでの1部復帰。今年こそ1部の舞台での躍進に期待がかかります。
一時は清宮監督率いる早稲田大学と覇権を争うなど一時代を築くも不祥事などもあり弱くなったと言われる関東学院大学ラグビー部。
そこで、今回はそんな関東学院大学(カントー)のまさに歴史をつくった男春口廣氏に迫った書籍「強いだけじゃ勝てない」を参考に関東学院大学ラグビー部の軌跡を学ぼうというお話です。
大学ラグビーは対抗戦だけじゃない!一つの時代を築いた”カントー”を押さえると大学ラグビーがもっと楽しめるはずです。
始まりは部員8人
春口廣が関東学院大学に赴任したのが1974年。当時24歳。
前年に勃発したオイルショックによる日本経済の混乱が残り、大学生たちは60年安保以降の閉塞状況に置かれていた時代である。学園紛争の影響で学校に出てくる学生は少なかった。
「今日はこれで全部です」
キャプテンの松村曰く登録部員は15人いるらしいがこの日いたのは8人だった。
「まあいい。とりあえずラグビーボール持って来い」
「いま、ありません」
春口は呆気にとられた。と同時に思った。
「彼らは本当はラグビーが好きでたまらないのだ。そうじゃないと辞めているはずだ。どこまでできるか、一緒にチャレンジしてみよう。」
春口はいつもポジティブだ。リーグ戦3部最下位からのスタートである。
リーグ戦3部から1部へ
シーズンが始まった。やっとのことで15人を確保したが大敗スタートだった。
戦法は、フォワードはボールを取る。バックスはウィングまで回す。全員でタックルする。それだけだった。春口はタッチライン際を行ったり来たりしていた。関東学院がボールをもつと
「パスするな。落とすから。そのままもってけ~。」
「蹴られるぞ~。フルバックさがれ~」
「ウィング、こっちだぁ」そんな具合だった。監督1年目は5敗1不戦勝の最下位だった。
就任2年目以降、勧誘に力を入れた甲斐もありチームは形になっていった。
春口が就任当初からずっと学生に言い続けてきたこと、それは「授業出席」と「禁煙」である。
学生の本分は勉強である。自己を律しなければラグビーは上手くならない。
そして、ラグビーの要諦は体力作り。
「グラウンドも人もない。貧乏で金もない。施設もない。そうしたらスタミナをつけるしかなかった。」
体格で劣っていても相手よりも一歩早く判断し相手よりもスピードがあれば互角に渡り合うことができる。
「で、スタミナを作るうえで一番ダメなものはタバコでしょ」
関東学院大学ラグビー部は30年余り禁煙である。
春口の監督就任4年目、努力と情熱は実る。
リーグ戦3部で全勝優勝。2部昇格を決めた。
3部優勝。胴上げも表彰式もなかった。初優勝の賞状をもらっただけだった。
「小汚い鉛筆文字で、なんかがっかりしたなあ」
チーム強化は着々と身を結びだす。
2部一年目はピンチだった。怪我人が続出しプレーできる学生は15人ギリギリだった。だが、チームは崖っぷちならではの強さを発揮し5勝1敗の2位という好成績を挙げる。
並行して学校へのアピールとチーム強化のため全国地区大学対抗大会へと参加する。
出場3年で準々決勝敗退、準優勝、優勝。
「地区大会とはいえ、全国制覇だからね。やればできる、そんな気分だった。これで1つ何かが変わるんじゃないかと思った。」関東学院大学は殻を破りつつあった。
全国の大学が集う大会で優勝出来たことがで勝つ喜びを知り、さらなるチーム力アップを学生自身が目指すようになった。
春口が監督に就任して9シーズン目、念願の1部リーグ昇格を果たした。
春口のやり方は、監督就任当初から一貫して技術ではなくプラン重視である。
練習もやることは基本技術ばかりで、あとは試合を想定した動きを繰り返した。
「とにかく長所を伸ばす。楽しませる。一人ひとりに手取り足取り教えていく。足の速い子がいたら下手でもいいからラグビー部に入れて、ボールを持ったら走れと教え込む。長所のある子を中心に組み立てる、それがカントーのベースになっていく。強い子は前にでろ、弱い子はそれについていく。先天的な素質のある選手が時々いるから、それを中心に戦い方を変えた。戦力的にそうせざるをえなかった。」
春口は勝ちにこだわり元気と意欲があれば積極的に新人を起用した。
「ラグビーの究極の目的はゲームを楽しむことだ。楽しむとは勝つこと。ノーサイドという言葉の前にはサイドがある。つまり敵味方ということでしょ。敵はこちらをつぶそうとする。見方はボールを生かそうとする。体を張る。その攻防が面白い。」
「常に上昇し続けなければ現状維持も有り得ない。挑戦無くして前進なし。」
悲願のリーグ戦一部初優勝
1部にあがったはいいものの2年連続8位と苦戦が続いたが関東学院大学100周年に転機が訪れた。
100周年記念として釜利谷に文学部キャンパスが完成しラグビー場が付属施設として新設された。
念願の専用グラウンドだった。しかも天然芝。「これは大きかった」
ラグビー部を取り巻く環境はどんどんよくなっていく。ラグビー部の合宿所もできた。
「合宿所は強化につながる。横のつながりを強くする。極力、規則は作らないでやろうとした。自分たちで規律を作ってやる。そこに自主性が生まれるんだ。」
関東学院大学1部リーグ5年目。この年のチームは勢いがあった。
レギュラー15人中、4年生はわずかに2人、バックスには4人の1年生が並ぶ若いチームだった。ルーキーの積極起用は関東学院大の伝統となりつつあった。4勝4敗で3位に躍進する。
大学側も協力的になっていった。関東学院大は初の海外遠征を敢行した。ニュージーランド遠征だ。
遠征は大成功だった。本場のラグビーに触れ、展開ラグビーの基本プレーを数多く学んだ。何よりもラグビー人脈を築けた。ニュージーランド人コーチの招請は恒例化していくことになる。
ニュージーランド人コーチのウィリアムズはよく笑って言った。「エンジョイ」
「つらい練習だから、エンジョイしないといけないって。俺は最初、エンジョイって何を言っているのかと思った。練習がキツイとエンジョイ。試合をする前にもエンジョイ。でも分かった。それは達成感、満足感という意味だった。さあ、精一杯やろう、自分に満足しよう、達成感を味わおう。それがエンジョイだ」
1997年ニュージーランドのクレイグ・グリーンコーチが就任した。かつてのオールブラックスの名ウィング。グリーンは選手の自主性を引き出す方針を打ち出した。監督の締め付けへの反発もあり多くの学生はグリーンを支持した。
春口は我慢した。グラウンドはグリーンに任せた。チームは一戦ごとに力を増していった。春口は変わった。自分が強いチームを作るのではなく、学生と一緒にいいチーム作ろうと努力するようになった。
「強いチームとはいいチームが成長していった結果なんだ」
春口の内的変化にキャプテン箕内のキャプテンシーがはまり「大人のチーム」が出来上がった。
決戦前日、東京に大雪が降った。国立競技場は一面真っ白い雪に覆われた。ラグビー協会から、春口にSOSの電話があった。「雪かきを学生に手伝ってほしい」
「おれに不平不満をもっている学生もいたと思う。”雪かきにでろ”って頭ごなしだから。いやいやだよな。最初は"なんで、俺たちが”なんだ。実は4年生は出ないんじゃないかと心配した」
杞憂だった。控え部員は国立に飛んでいった。
「足はぐちゃぐちゃだよ。手も足も冷たいだろう。でも汗びっしょりになって、必死でレギュラーの舞台を準備したんだ」
ずっと2軍以下でくすぶっていた問題の4年生がボソッと漏らした
「俺、初めてチームの役に立ったよ」
試合直前のロッカールーム。春口は雪かきの件を選手に説明した。キャプテン箕内は叫んだ。
「やるぞ!絶対に負けられない。俺たちはスタンドにいる部員を日本一にするんだ」
140人の部員が一つになった。
試合は関東学院大のペースで進み前半をリードして折り返す。
勝負のヤマ場は後半25分からの7分間だった。
6点差を追う明治の反撃。関東ゴールにこれでもか、これでもかと迫り突進を繰り返した。組みなおされた5メートルスクラムは8回。ペナルティキックが2回。ラインアウトが1回。一度はフォワードが雪崩を打ってゴールラインを割った。だがグラウンディングはさせない。関東学院が踏ん張る。
特にフォワードのボールへの絡みは抜群だった。激しく刺さり腕を滑り込ませた。そして防ぎ切った。
ロスタイム、関東学院は明治陣ラインアウトからラックを形成。最後は淵上がインゴールに飛び込んだ。
ノーサイドの鉄笛が鳴る。ついに大学日本一を掴んだ。
伝統校の明治を破っての大学日本一である。新興勢力と言われ続けて久しいチームが何度も跳ね返されてきた伝統校の壁をぶち破っての全国制覇である。大学ラグビーの新時代を印象づける瞬間であった。コツコツとチームの基礎を築いての日本一。春口48歳、就任24年目のことだった。
V2 黄金期の始まり
1998年シーズン。連覇を目指すチームにはスタンドオフ淵上、ウィング四宮、フルバック立川ら天賦の才
が揃っていたが勢いは昨シーズンほどなかった。連覇への道は長く曲がりくねっていた。
フォワードはフォワードで、バックスはバックスで動こうとしなかなか連携を取ろうとしない。互いのフォローが遅れバラバラになっていった。
窮地に立った春口は合宿所に通い部員達と向き合う日々が続いた。転機が訪れたのはリーグ戦終盤。怪我人の立川がスタンドで応援団長を買って出た。大声でチームを鼓舞した。流れが変わった。
大学選手権決勝。立川は部員たちの前で決意を表明した。
「みんなを絶対に日本一にします」一年前の箕内キャプテン箕内とほぼ同じコメントだった。
試合は前半、ペナルティゴールの応酬で息詰まる展開となった。
10分間のハーフタイムを挟み状況は一変する。
「ロッカーに戻ったら、選手がそれぞれ、ああしようこうしようと言ってるわけだ。これがうちの雰囲気だと思った。後半戦はこうやってやろう、これでどうだ、と。色んなアイディアがどんどん出てくる。もう絶対後半はうちがいくなと思った」
ロッカールームで戦法の修正を話し合った。結果ゲーム修正能力で明治を上回った。
どん底から這い上がっての優勝、V2の達成である。
1999年シーズンは100周年を迎えた慶応義塾の気合いと<魂のタックル>を前に敗れるも翌年は史上初のリーグ戦同士の決勝で法政を破り優勝。黄金期突入の兆しがみえる。
そんな中登場するのが清宮克幸。二人の軌跡が交錯したのが2001年の春である。
ブレザー姿の清宮が釜利谷の関東学院大グラウンドにぶらりと訪れてきた。
「ハルさんどうも」監督就任の挨拶である。
「天下のワセダの監督がわざわざ、釜利谷まで来たんだ。嬉しいじゃない。キヨが来たんだ」
春口は実は、清宮がフルタイム監督の3年契約と聞いてヤバいと思っていた。
今や大学ラグビーを徹底強化するには、1年365日部員たちを見ていないといけない。そのアドバンテージが大学教授の自分にはあったのに清宮は所属するサントリーから給料を貰って毎日早稲田のグラウンドに行くというのだから。
春口の直感は当たることになる。
1年後、大学選手権の決勝まで上がってきたのは関東学院と清宮率いる早稲田だった。
春口カントーは清宮ワセダを21-16で退け大学日本一の座に就いた。大型フォワードで早稲田の鋭い出足とスピードを封じ込んだ。力でもぎ取った大学2連覇だった。
試合後、報道陣でごった返す競技場の通路で清宮から声をかけられた。
「ハルさん、長い付き合いになりそうですね」
春口の監督としての転機となった。
「その瞬間、初めてカントーを認めてくれた。最初に釜利谷に来た時は本当に認めてなかったと思う。でも、打倒カントーで一年やって、うちが何とか5点差で勝った。そして、長い付き合いになりそうですねと言ってくれた。キヨは何かを感じてくれた。認めてくれた」
「うちが弱くなったら、その場で消えるだけなんだ。消えないためには、いつも強くないといけない。ワセダ、メイジ、ケイオーとやるには勝ち続けないといけないんだ」
「伝統校ではない我々は勝ち続けねばならないのだ」
春口はライバル心を駆り立てた。春口カントーVS清宮ワセダの勝負は5年に渡り、清宮3勝ふぇ勝ち越すことになる。
黄金時代の終焉
2007年、春口は、事務職員の言葉に耳を疑った。「部員が寮で大麻を栽培しているらしい」
すぐに職員と訪れ、押し入れを開けた。10~50センチの草16株が植木鉢に植えられていた。大麻だった。部屋に住む部員2人が大麻取締法違反(栽培)の現行犯で逮捕された。
ラグビー部は2008年まで一切の活動を禁止された。自らも辞任を余儀なくされた。
栄光の陰で、チームには綻びも見え始めていた。
来る者は拒まずの姿勢も、結果としてマイナスに作用した。部員は多い時で200人を超えた。寮に入りきらず、マンションを借り上げて急場をしのいだ。
部員間にはおのずと温度差が生まれた。私生活にも目が届きにくくなった。大麻事件が起きたのも、主力以外の部員が入るマンションの一室だった。
2008年に活動を再開したラグビー部は、バラバラだった。
このシーズン、大学選手権は1回戦で早稲田に敗れた。
「ようやく終わった」
春口は2010年、部長としてラグビー部に復帰したが、チームは低迷した。12年は関東リーグ戦を7戦全敗で終え、入れ替え戦で31季ぶりに2部に降格した。
奇しくも、自らが語った通り敗れたことで表舞台から消えることとなった。
復活をかけた戦い
2023年。
もはや黄金期の面影はなく、リーグ戦2部での戦いが主となった関東学院大。
立川監督が就任したのが今年の春。黄金期を自ら作ったひとりとして、明るく、勝利を追求する集団を作った。関東大学リーグ戦1部復帰を決めた。
「熱い。すごいパッション。チームが好き、といつも口に出して言ってくれる。そういう言葉や姿勢に助けられたことは多いです」と語るのは宮上共同主将だ。
チーム愛は、黄金期もキーワードのひとつだった。
かつて、黄金期築き上げたワンマン監督はもういない。しかし、その歴史は決して失われるわけではない。脈々と受け継がれるものもある。
黄金期、どん底から大学日本一を勝ち取った立川のリーグ戦一部挑戦。
関東学院大が今後どのような戦いを魅せるのか、期待が高まっている。
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