古舘伊知郎、佐藤孝、腰山一生「トーキングブルースをつくった男」たちの物語を徹底解説

当ブログの名前は「斉木清美のブルース」勘のいい方はお気づきかも知れませんが実はこれ「古舘伊知郎のトーキングブルース」から一部とってるんですね。

古舘伊知郎が劇場でマイク一本で喋り倒すっていうあれです。

今回の記事はそんなトーキングブルースに関わる主に3人の人物の物語

「トーキングブルースをつくった」著 元永知宏 の解説、感想記事です。

僕が愛してやまない「トーキングブルース」がいかにして作り上げられたのか、そして携わった3人の男の人間模様に迫ります。

1 天才喋り屋 古舘伊知郎

古舘伊知郎は1954年12月東京都北区滝野川で生を享けた。

思春期には父親から「お前はサラリーマンになっても出世出来ない」と言われ自分もアナウンサーに憧れがあり喋り手になりたいと思っていた。立教大学を卒業後、テレビ朝日に入社。入社1年目でプロレス実況デビュー。「ひとり民族大移動」(アンドレ・ザジャイアント)、「ブレーキの壊れたダンプカー」(スタン・ハンセン)、「UWFのカダフィ大佐」(藤原喜明)。古館の口から名キャッチフレーズが次々と生まれ「古館節」「過激実況」としてプロレスファンの熱狂的な支持を受けた。

この時の古館は「会社の中よりも外のほうが評価されていると感じていた。プロレス以外の仕事もやりたかったし金も稼ぎたかった。欲が丸出しになっていたと思う」

そんな中、あるバラエティー番組の収録後に近づいてきたのが、小太りで黒縁眼鏡をかけた放送作家だった。

「古館ちゃん最高、最高だったよ」越山一生は言った。これが2人の出会いだった。

1984年6月をもってテレビ朝日を退社。

越山が結び付けた男佐藤孝を社長とする古館プロジェクトが設立されるのは1984年7月1日。

所属タレントは古館ひとりだけ—–

古舘伊知郎が29歳の夏のことだった。

古館プロジェクトにて佐藤の立案で始まったトーキングブルース。しかし佐藤が掲げたトーキングブルースという大テーマと古舘・ブレーンたちがイメージするものとの間には乖離があった。

「喋り手としての古舘伊知郎のなかに支柱をつくらないといけないということはよく分かっていた。佐藤さんからの提案でもアラートでもあったんだけど、どこまで理解していたのかはいまとなっては分からない」

転機となったのは姉の死を越えて迎えた第4回。

オレちっちゃいころ、引っ込み思案で、無口で消極的なタイプだった。ほんと、ほんと。その裏返しでこういう商売やってる気がするんだけど。

姉貴はすごいよ、活発で、お喋りで仕切り屋で。近所の同年代の女の子を集めて遊んでた。恥ずかしいんだけど、おれはいつも姉貴のお尻ばっかり追いかけてた。姉貴の肩越しに女の子たちが遊んでいるのを観察してたんだな。

姉貴を中心にして色水遊びっていうのをやっていた。簡単なの。空の牛乳瓶に水で溶いた絵具を入れてね。その瓶を並べたら、夏の日差しにさ、7色の色水が溶けていくんだよね。遠くで、風鈴の音が風に運ばれてくるって感じかな。なつかしいなあ。

オレ、幼稚園の時、冬場には毛糸のパンツを穿かされていたんだよ、半ズボンの下に。赤いやつ、なんでか分かる?姉貴のおさがりよ。

チクチクして嫌なんだ、それが。おふくろは女の子用につくっているから、前が開いてないのよ。でも、半ズボン穿いてるから、一応、隠れるじゃん。

幼稚園に行ってブランコ乗ってると、ずり上がってきてきて、赤いパンツが見えちゃう。「あいつ、男のくせに赤いパンツ穿いてる」って冷やかされるんだ。

オレ、小学校の低学年の時かな。風疹かなんかになっちゃって顔にぶつぶつ赤いのできちゃって。家から出るなって言われたのに、子供だから出たくなっちゃうじゃん。家のまわりは住宅密集地域だから近所の子供たちにみつかって。

「あいつすごい顔してる」「怪獣だ」「お化けだ」って冷やかされて、オレが何も言えない時に、姉貴が出てきて「あんたたち、なんなのよ。うちの伊知郎は風疹なのよ。そんなこと言わないで」。

みんな蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。姉貴が腕組みしているのを見上げて、マグマ大使かと思ったよ。恥ずかしかったけど、頼もしい感じもしたよね。

でもね、その姉貴が突然、がんの宣告を受けたのが昭和61年11月の寒い日だったな。

本人には胃潰瘍と言いましたよ。

俺ね集中治療で管を通されて寝ている姉貴の顔はとても見られなかった。

そういうふうに言えばカッコいいけど、逃げてたんですよ。弟で、いっつも甘えていればいいんだから。

姉貴は親父とおふくろに何回か探りを入れてきました。

「胃潰瘍じゃないでしょ」

オレには全然なかったな。いつまで経っても、不肖の弟は不肖の弟。ちっちゃいころ、自分のおさがりの赤い毛糸のパンツをおしっこで濡らしたような情けない弟に弱みを見せたくなかったのかね。その点は助かった。

とにかくね、5年の目盛りを気にしてました。5年経てば、5年経てばと。

3年が経ったころに、突然、転移の報告があったんですよ。

体中に増殖したがん細胞が姉貴の体を乗っ取りはじめたんです。

余命は最大で2年、先生から宣告がありました。

卵巣だけじゃなくて、腸のほうまでがんが進行していたんです。本人には言えませんよ。先生からは卵巣が肥大して腸まで癒着しているから、腸の一部を切除しなければいけないと話してもらいました。

親父が見舞いに行った時、6人部屋にいたんだけど、カーテンを閉めた途端に姉貴が泣きはじめました。姉貴のこととなると親父はからっきしダメで、芝居のひとつも打てやしない。

2大ミス発言というのがありましてね、ひとつは「なんで私だけが不幸になるのかしら」と姉貴から言われて「神代の時代からずっと長く生きてきて、いろいろあったかもしれんよ。その因果がお前にいったようで申し訳ない」って。

もうひとつはね「私にもしものことがあったら子どもが・・・」っていったら、「子どもは大丈夫。時が風化してくれる」って。滑稽でしょ。

この2大ミス発言から、親父は姉貴の前では一切、言葉を発さなくなりました。ただただニコニコしているだけ。

僕も行きました。手術の前の日くらいだったかな。どんな顔していったらいいんだ、、どんな言葉を投げかけりゃいいんだ。表情だって見られやしない。オレったら、バカ病院にサングラスをかけていきました。

1時間くらいして、そろそろ引き上げようと思って、「じゃあ、また来るね」といううと、エレベーターの前まで送ってくれて、オレがエレベーターのなかに入って「それじゃあ、また」って声をかけた途端、両手で顔を覆ったかと思うと、急に肩を震わせしゃくりあげはじめたんです。

ちっちゃくしぼんだパジャマ姿で、ギリギリまで弟に弱みを見せまいと気張ってた姉、ギリギリまで逃げようとしていた弟。声をかけようと思ったら、扉がしまっちゃいました。

化学療法の抗がん剤というのは、がん細胞を殺してくれるんですよ。同時に、正常な細胞にも影響を及ぼすんですね。まず髪の毛が抜け落ちましたよ。

そして、強烈な吐き気を伴う食欲の減退・・・。

1回目の化学療法が終わって家に帰ってきた姉貴から電話がありました。

「二度とやりたくない・・・」蚊の鳴くような声でした。

平成2年7月7日だった。担ぎ込まれるように、姉貴は虎の門病院に緊急入院しました。七夕の日でした

病院に入ってからね、周囲にがんなんて言葉、口にしなくなりました。身内から「がんだ」と最後通告を受けたら逃げ場を失うからですかね。

12月26日。病院に電話したら、「外出されました」

どうしたのかと思って、すぐ姉貴の家に電話した。

「ママ、さっきまでいたよ。病院に戻った」

自分で点滴の針抜いて、つながれた管外して、ふらふらになりながらタクシーに乗って、水一滴も飲めないのにひき肉こねて、味見もできないのに、得意だったハンバーグ、子どもふたりに食べさせたって。

親父は会社の昼休み、毎日、地下鉄で病室に行ってましたよ。

ある時、親父が帰ってきてこう言ったんです。

「いやあ、だいぶ腰痛がひどいようだけどな。『お父さん、背中マッサージしてよ』って言うんだよ。30分もしてやったかな。今日は本当にうれしかったな」

あっけらかんとした口調でね。手と背中でつながる、精一杯のコミュニケーション。

以降、お別れのマッサージが親父の日課になりました。

オレ、ふと思った。エゴです、まわりのエゴですよ。姉貴が苦しがったりなんだったりしても一日でも長くこの世にいてくれると思ったらほっとするもの。でも、本人にしてみたら、たまんないよ、あの痛みは。

何回も、安楽にしてやろうかと思った。延命治療って、なんなんですかね。

3月6日にF1の開幕戦がアメリカのフェニックスであるから、その前日に病室に行きました。酸素吸入の管を見ました。「F1から帰ってきたら、また来るよ」

はっきり、うなずいてくれました。

決勝の中継の2日前だったかな、現地・フェニックスで。金曜日の夕暮れ時だったと思います。サーキットからホテルに帰るとメッセージランプが点灯していました。

東京に電話した。親父が出て、「恵美子がようやく自分の家に帰ってこれたぞ。ようやく帰ってきたぞ」。泣いていました。

姉貴を拘束したすべての管が外されてました。その時、オレは思った。いや、負け惜しみじゃない、本当にそう思った。

姉貴はね、自分の体のなかで暴れ続けるがん細胞にね、死っていう最後の手段で相打ち、一対一の引き分けに持ち込んだんですよ。

42歳でした。俺ね、決勝の日までフェニックスでホテルで、ベッドの傍らに背もたれのある椅子を置いていた、いつ姉貴が来てもいいように。

来なかった・・・来るわけないですよ。社交的でお喋りな姉貴のところに、家に帰ってきたからって友達が詰めかけている時に、忙しい時にオレひとりのために太平洋を渡ってくるわけない。

待ってるのはオレじゃない、姉貴のほうだ。相変わらず甘えてた。

中継の当日・・・。

レースはポールから飛び出したアイルトン・セナのひとり旅であります。

セナはいま、孤独のコックピットのなかで一体何を考えているのでしょうか。セナの、ドライビング1点に集中できる集中力とは一体どこからきているのでしょうか。

セナの実のお姉さんは、ブラジルで心理学の学者をしていると聞いております。セナは精神療法、精神集中力のノウハウ、一切合切をお姉さんから授かったと聞いております。

まさに姉弟愛は永遠です。

思わず口をついて出ていました。

その時東京では無言の帰宅をした姉貴の枕元に深夜、テレビが灯っていたそうです。

葬儀の日、姉貴の子供ふたり、明子と健介、お姉ちゃんと弟が遺影を抱いていました。お姉ちゃんの白いソックスと弟の紺の学生服。もっとちっちゃい時、姉貴とふたりで肩を並べて撮った写真が頭のなかに浮かびました。

姉貴の棺が運ばれていきました。   第4回トーキングブルース「ラジオブースより愛をこめて」

2.人を結びつける名人”歪んだマザーテレサ” 腰山一生

古館プロジェクトを設立するにあたって、古館と佐藤を結びつけるという重要な役割を果たした腰山とはどんな人物なのか。

古館によれば「よいしょ上手で、相手を持ち上げるのが上手くて、一緒にいると気持ちいい。聞き上手で、相手の気持ちをまろやかにする人なんだけど、少しだけ苦言を呈する」人だった。

放送作家として携わった番組はここに書ききれない程だ。売れっ子放送作家だったことは間違いない。

古館のマネージャーをつとめた梅本によれば「なんでこいつはここにいるの?という感じでそのまま居ついちゃってる感じの人」だった。

「腰山さんはどういうつもりだったか分かりませんが、いまで言うマッチングアプリみたいなひとでしたね」

2000年のことだ。10年近く前に古館プロジェクトを離れたプロジェクトを離れた梅本は、腰山から電話を受けた。梅本は言う。

「相談したいことがあるから時間取ってくれという。でも、約束した日になったら連絡が来て『ごめん、検査受けたら、がんだった』という。だから何の相談があったのか、聞けなかったんですよね。それが悔やまれて悔やまれて・・・」

腰山は知り合いを頼って福島県立医科大学病院に入院したもののすでに治療方法は見つからなかった。

俺と同い年の放送作家の腰山一生が死んだのは46歳の時だった。もう越山が死んで、14年になろうとしている。

越山、時折墓参り、オレは行くよな。今日も行ってきた。青山通り沿いの浄土宗梅窓院にある墓。土曜日あたり、夕暮れ時に行くからね、お前の墓石に語りかけていると、あっという間に夜になっちゃうだよ、越山。

この青山の空がどんどん狭くなるな。来るたんびに高級マンションや高層ビルができちゃうからさ。いや、でもいいか、越山。お前は都会好きだったからな、なんて話してると、夜のとばりが下りちゃう。

それでも、墓石の腰山って刻まれた文字を見ると、立ち去り難くなっちゃう。ちょこちょこ喋りかける、これをそばで見てたら変だよな。だってさ、なんか平成狸合戦ぽんぽこの2匹の狸が都会の片隅でひそひそしてるみたいだもんな。

腰山は体調が悪くて、検査をしたら末期がんだった。手の施しようがなかった。腰山、知り合いの先生頼って、手術も何もできないのに、福島県立医科大学病院に入院したな。

オレは忘れもしない。お前と最後に話したのは12月24日、クリスマスイブの夜だった。オレは夕暮れ時に病院に着いて、お前の部屋に入っていった。

腰山は瘦せこけていた。黄疸が出ていた。意識が混濁していた。時折、食べたくもないのに、若い看護師さんにダダをこねて、「ヨーグルトを食べたい」。お前は、口にヨーグルトを入れてもらっても、吐き出していた。俺は傍らでずっと、おまえの一方的な喋りを聞いていた。腰山はわけのわからないことをオレに語り続けた。

「うん、そうか、そうか」って言いながらオレはちょっとつらくなって「じゃあ、腰山、また来るよ」っていったら、ガバって起き上がってひと言言ったな、オレに。

「古館、1週間後の大晦日はひとつ、ご陽気に盛り上がって!」って言ったろ。

1週間後に開かれる大晦日の日本橋三越、そのデパートのショーウィンドウのなかから道行く人に語り続けるカウントダウンライブ、トーキングブルース。それのことを腰山、お前は言ってくれたんだよな。

「ありがとう。分かってくれて。また来るよ」ってオレは笑って病室を出た。逃げるようにだ。

東京に帰る電車のなかでずっと考えた。本当は、おまえが自分が盛り上がりたかったんだよな。でも、生きたくたって生きられないってうすうすわかってるから、オレに対してああいう言葉を言ってくれたんだよな。

「だったら、腰山!」ってオレもひと言、なんか返すべきだった。オレは「また来るよ」ってウソついて、もう二度と会えないって悟ってたのにさ。

ごめんな、腰山     2014年トーキングブルース

3.古舘伊知郎の”義理兄” 古舘プロジェクト社長 佐藤孝

古館プロジェクトの社長に担ぎ上げられることになる佐藤は、それまで放送界にも芸能界にも縁がなかった。「芸能界自体が大嫌いだし、タレントの顔もほとんど分からない」門外漢だった。それでも腰山やその仲間たちに推される形で、新会社の社長になることが決まった。

まだ事業が始まっていない段階で、佐藤は資金をかき集めた。古館に渡す契約金と向こう3年でかかる費用を1億円ほど見積もっていた。

佐藤が重い腰を上げたのは古館の才能を感じたからだった。

「秀才はたくさんいても、天才なんかめったにいるはずがないと思っていたけど、古館の喋りを聞いた時に天才の域にいるなと思った。喋りに関してはだよ。ものすごく強い星の下に生まれた男だなと」

仕事は順調に増えていったがしだいに古館の資質に疑問を持つようになった。

喋りの才能があったとしても、それだけで荒波を乗り越えていけるはずがない。パッと出てすぐに姿を消す一発屋になってしまうんじゃないか―そんな思いにとらわれた。

古館が長くこの世界で活躍するには、支えとなる棒のようなものがなければならない。彼の個性を生かしながらアピールできる何かをやろうと佐藤は考えていた。

お世話になっている会社の会長と食事をする機会があった。古館プロジェクトの所属タレントは古舘伊知郎だけ。当然、彼をどう使って事業を進めるかという話になった。

その会長が漏らした「古館って男は喋るロックンローラーだな」という言葉を聞いて、佐藤は閃いた。トーキングロッカー・・・いや、トーキングバラードじゃ締らない。

そうだトーキングブルースだ! 

古舘とそのブレーンのなかで、ブルースの意味を理解していたのは佐藤だけだった。他のメンバーは自らの体験として哀しみを味わった事がない。1948年11月、福島県の炭鉱町である磐城町に生まれた佐藤には3歳の頃の記憶がある。

佐藤の父は常磐炭鉱を仕切る仕事をしていた。汗や泥だらけになった炭鉱夫が仕事終わりに大きな風呂にに浸かりにくる。飯を食いながら酒を飲むのが彼らの日課だった。重労働の後の酒はうまい。なかには酔いに任せて騒ぐ者もいるし、こぜりあいも起こる。揉め事をおさめるのは父の仕事だった。前科者もいれば、よそから流れてきた厄介者もいただろう。そういう男たちを父はかわいがった。

「だけど、常磐炭鉱が閉山になって、家族離散するだけじゃなくて、そこで働いていた人々が一夜にしていなくなった」

「水脈に当たっちゃってダーッて水が出て死んだ人、爆発事故で死んだ人がたくさんいる。あまり語られることのない悲劇があった。朝、笑っていた人が夕方に死んでしまう・・・そういうことを見てきた。まだ幼ったからよくはわからなかったけど」

疲れた体と心を酒で癒していた人が消えていなくなる無常、その非情さを佐藤は肌で感じていたのかもしれない。

「生きるということのなかに、悲劇も喜劇も、もちろん幸せも、つらいこともあったよね。幼いころから

見てきた情景、悔しかったこと、いろいろな経験や感情がトーキングブルースの源なのかなと思う」

トーキングブルースをつくった男たち

古館が50歳になる年に、ターニングポイントが訪れた。

2004年4月から始まる『報道ステーション』のメインキャスターをつとめることになったのだ。

古館は言う。

「報道ステーションをやっている時にトーキングブルースを開催することについて、本音が

ふたつあった。ひとつは、日々の仕事が忙しすぎて、神経が報道にいっちゃって、そこまで考えられないということ。もうひとつの本音はだからこそ、またやってみたい」

ふたつの本音の間で葛藤する古館の背中を押したのは、佐藤だった。

「自分では気付かなかったんだけど『お前は毎日、トーキングブルースをやっているじゃないか』と言われたんだよね。『番組で、哀しいニュース、つらい事件を毎日のように伝えているだろう』と。ああ、そうだよなと思って、やることに決めた」

古館が報道ステーションのメインキャスターに就任して以降、佐藤との関係に大きな変化があった。古館プロジェクトが制作協力として番組に加わることになったからだ。多くの放送作家とともに、古館と佐藤の関わりが一気に増えた。古館が言う。

「『報道ステーションにブレーンとして加わる以上、なあなあじゃダメだ。これまではプレーヤーとしての古館を立ててきたし、古館も経営者の佐藤を気遣ってきた部分があるだろうけど、俺がプロデューサー的に関わるからには、ここからは竹光(竹削ったものを刀のように見せかけたもの)じゃダメだ、抜き身(真剣)で行く』佐藤さんの言葉として、間接的に聞いたのかな。おお、こえーと思った」

これまで以上の近距離で、真剣で切り合うという宣言だった。

「佐藤さんは、オレみたいな人間と関わることは億劫だったと思う。『古舘伊知郎の性格は好きじゃない』と面と向かって言われたこともあるし。でも、佐藤さんはうちの父親との約束を守ってくれて、オレを一切騙すようなこともなく、付き合ってもらった佐藤さんがブチ切れそうになったことはたくさんあっただろうけどね」

「これまで付き合ってきたなかで憎しみ合ったじきもある。古館は利口だから口には出さないけど、ふたりの関係がダメになりそうなことが何度もあった。そんな時、最後に止めてくれたのが古館だった」

2020年8月、トーキングブルースは開催された。その春咲きから猛威を振るった新型コロナウイルスの影響で、配信限定の無観客ライブとなった。開催にあたり、古館はこう語った。

「喋る仕事だけで43年以上生きてきて、オレは65歳になった。報道番組のニュースキャスターという仕事を12年やり終えて、今の自分にあとはなにができるだろうと考えた。自分の欲望として、喋る仕事で人生を終えたい、というか、むしろ喋ること以外で何があるのかという思いgある。自分をそぎ落として、そこに残るものは?・・・それが『トーキングブルース』だった」

佐藤は言う。

「どれだけ時代が変わっても、トーキングブルースに対する思いはある。トーキングブルースが達成しなくちゃいけないものも、まだ残ってる。だって人間が生きている限り、普遍的な哀しみや怒り、痛みや不条理は無くならないから。大切なのは、これから古館がどんなトーキングブルースをつくっていくかだな」

古館はこれからもブルースを奏でるだろう。そして、そこにはトーキングブルースに関わる人間のブルースも乗っているはずだ。

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